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2014年3月28日 (金)

[才市] 蓮如さまは 慚愧が強い

蓮如さまは 慚愧が強い
御開山は 慚愧が強い
わしがな うそ うそ
あさましや あさましや
なむあみだぶつ なむあみだぶつ
(楠, 二, p.249)

 蓮如上人は何となく苦手だったけど,『御一代記聞書』を読んで印象が変わったと前回書きましたが,こういう人は結構いらっしゃるようですね.

普通の見方からすると,慚愧の念をストレートに示したのは親鸞聖人だけ(教行信証,歎異抄)であって,蓮如上人は自分の内心をあらわに示さない,だから蓮如上人は嫌いだという人はたくさんいます.
(源, p.179)

 はい,私がそうでした(^^;).

この『聞書』を通して『御文』を味わうという態度は,そうでない場合とは違って蓮如像を作り上げると思います.たとえば,「蓮如さまはざんき(慚愧)が強い」というような蓮如観は,御文だけからではとうてい出てこないと思います.
(源, p.179)

 この口あいに見られる蓮如観の他,『聞書』を通じてしか知ることのできない法敬坊の話が口あいによく出てくること,また,才市さんは,『聞書』の一節をノートに書き抜いてもらっていることなどから,才市さんは『聞書』のご法話を聞くことが多かったと源氏は推測されています(源, pp.178--179参照).

 蓮如上人を誤解していた私などは,才市さんは,蓮如上人と幸せな出会いをされたのだなぁ,などと思ってしまいます.ま,『聞書』を読み進めていったときの,“意外や意外,蓮如さん,あなた,ホントはステキな人じゃない(失礼)”という驚きも悪くはなかったのですけどね.

【補足】
 楠, 二, p.249:  楠恭 編『妙好人才市の歌 全』の二, p.249(二の第9ノート, 37番).

 源: 源了圓「<記念講演> 蓮如上人・梅田謙敬・浅原才市」(『眞宗研究: 眞宗連合学会研究紀要』第43輯, H.11[1999], pp.157--194).

 才市さんの教化にあたった梅田謙敬は,七高僧を含めた幅の広い真宗学を志向していて,その中で蓮如上人への言及はごくわずかしかないそうです.ところが,その謙敬が,門信徒教化のご法話では,蓮如上人の『御文章』と『聞書』を中心とした話をしていたらしい.この二つの立場はどういう関係にあったのか・・・.
 これについて,源氏は,謙敬が,「虚空」と「機法一体」という言葉を法話の中でよく使っていたことを手がかりに論じておられますが,その辺の要約はちょっと私の手に余ります.「『虚空』に包まれた」「機法一体のコスモロジー」などという言葉が出てきますので,ご興味のある方は上記文献に直接当たってください.この「機法一体」が,才市さんの口あいによくある,阿弥陀様との対話を促したという指摘もあります.
 因みに,謙敬が若い頃書いた,自分が志向する真宗学をコンパクトに示した本の中では,蓮如上人への言及は一箇所だけで,それは「六字釈」と「機法一体」を論じたところだそうです.

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