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2018年10月20日 (土)

「わが想い高けれどわが力遥かにおよばざる」

 少し前,堀辰雄『風立ちぬ』に触れましたが,この小説,題名の由来である詩句「風立ちぬ、いざ生きめやも」がよく問題になりますね.ヴァレリーの詩句を訳したものですが,元の詩句が「生きようとしなければならない」という強い意志を表わしているのに対し,「生きめやも」だと,「生きようか,いや・・・」と反語的な含みになって意味が逆転しているに近い,と.

 これを以て,堀辰雄はフランス語が分からなかったとか,日本語文語を知らなかったとか言う人もあるようですが,敢えて誤訳したのではないか,という説を聞いて,そうかもしれないと思いました.つまり,あの小説には「生きねばならぬ」という強い意思よりは,「さあ,生きよう,いや,生きなければならないのか」という逡巡の方がふさわしいから,敢えてそう訳したのだと.

 そう考えると,あの言葉は,語り手の「ふと口を衝《つ》いて出て来たそんな詩句」とされていますので,作中人物がその心情に依って変えた(間違えた)と理解することもできます.さらに,元の仏語が最初に掲げられているのは,「作中で引用される詩句はこれの訳だけど,ニュアンスを変えていることに注目してね」という作者のメッセージとも取れます(深読みが過ぎますか?).

 以上,ヴァレリーについても堀辰雄についても何も知らない人間の素人談義ですが,これで,前々から気になっているもう一つの「誤訳?」のことを思い出しました.映画『若草物語』の科白です.

 この映画で,「ベア先生」が「ジョー」に向かって,ドイツ語の歌を歌いながら,その意味を説明する場面があります(全体の2/3くらいの所).

Nur wer die Sehnsucht kennt
ただ憧がるるもののみぞ知る
Weiss, was ich leide!
何故に苦しむかを
Allein und
喜びや幸せより遠く離れしさみしさ
(間)
望み高けれど我が才知遥かに及ばざりき
(ここは,ドイツ語の引用なし)

 これを聞いたジョーがこう答えます.

「望み高けれど我が才知遥かに及ばざりき」
万人の心を打つような言葉ですわね.

 この最後の言葉,ずっと昔テレビで見て,「我が望み高けれど,我が力遥かに及ばざる」と覚えていました.先年,テレビでこの映画がまた放送されたので,上の場面を確認し,ついでに,元の言葉はどうなっているのだろうと英語の方を聞いてみたら(便利な時代になりました),何と

My senses fail. A burning fire devours me
(感覚が薄れ,燃え上がる炎が私を飲み込む)

と言っているのです.ジョーの言う通り,私も心を打たれ,少し違った形ではあるけどずっと覚えていた科白「我が望み高けれど,我が力遥かに及ばざる」はどこにもないのですね.

 この歌は,“Nur wer die Sehnsucht kennt”というドイツの歌と紹介されている通り,ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』に挿入されている「ミニヨンの歌」に曲を付けたものです.そこで,「ミニヨンの歌」を見ると,たしかに,“Es schwindelt mir, es brennt Mein Eingeweide.”という句があります.

 つまり,

Es schwindelt mir, es brennt Mein Eingeweide.(ゲーテ)
→ My senses fail. A burning fire devours me.
  (映画の原語の科白.ほぼ正確な訳)

→ 望み高けれど我が才知遥かに及ばざりき
  (映画の日本語訳科白.まったく違う訳)

というわけです.

 なぜこんなことになってしまったのか? 元の英語は平易ですし,ドイツ語の原詩を参照するのも難しくありません.間違いということはまずありえないでしょう.ということは,意図的な「誤訳」でしょうか.

 元の詩は,遠く離れた恋人への燃え上がる想いを歌ったものです.だから,「感覚が薄れ,燃え上がる炎が私を飲み込む」.しかし,その裏に,具体的な恋人ではなく,もっと一般的な,遥かなるものへの憧れを感じさせます.「我が望み高けれど,我が力遥かに及ばざる」は,その背後の意味を前面に押し出した訳といえるでしょう(実際,私は,映画で聞いた時には恋愛の歌だとは気づきませんでした).あの映画のあの場面ではこちらの方がふさわしい.訳者はそう判断して,敢えて「誤訳」(というか,科白の差し替え)を行ったのかもしれません.しかし,原詩はゲーテですからね,そうだとしたら,なかなか,大胆不敵だ・・・(^^;).

【補足】
 『若草物語』:何度か映画化されているようですが,ジューン・アリソンやエリザベス・テイラーが出演している版です(米国, 1949年).因みに私はこの映画,白黒だとばかり思っていました.以前見た時は,家のTVがまだ白黒テレビだったらしい(^^;).

 「Nur wer die Sehnsucht kennt」についてはこちらに詳しい話がありました.
この曲は,動画サイトにたくさん上げられています.たとえば,
 チャイコフスキー作曲「Nur Wer die Sehnsucht kennt」.映画でベア先生が歌っているのがこれです.ヴァイオリン曲もありました.チャイコフスキーらしい,感傷的といいたくなるくらい甘くて切ない演奏です.
 英語版は「None but the lonely heart」
 日本語版もありました(堀内敬三訳).
 なかなか,有名な曲のようですね.
 同じ詩にシューベルトも曲を付けているようです.

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コメント

ご無沙汰しております。
堀辰雄の『風立ちぬ』。「生きめやも」に含まれる「逡巡」について考えるところがありました。同名のアニメ作品を作った宮崎駿氏が、堀越二郎と堀辰雄を重ねていたということはよく知られています。実はこのアニメにはもう一つ、堀田善衛の「空の空なればこそ」が隠し味となっていた、と言われています。旧約聖書のコヘレトの書から取られたものです。宮崎アニメでの最後の場面で、堀越二郎は落胆しており、すぐには「生きなければ」と言えなかったように見受けられます。短いながらも契りを結んだ菜穂子の願いと、彼の夢を支えた設計家カプローニ伯爵の励ましが、逡巡しながらも、彼をして「生きなければ」と思わせたでしょうか。コヘレトの書の「空の空」、「すべては虚しい」とほとんど見分けのつかない「涅槃」を課題として生きることは、願いにあうことなしにはあり得ないということか。そんなことを今回のお話から思いました。
京都在住 真宗大谷派門徒 林克樹

林さま.コメントありがとうございました.

アニメの『風立ちぬ』は見ていないのですが,そういう背景があるのですか.そのうち見ようとは思っていましたが,早く見たくなりました.

「願い」によって,「空の空」からわずかに,しかし,決定的に隔てられた「涅槃」・・・そんな言い方ができるかもしれない・・・そんなことに気付かされました.

ありがとうございました.

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