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2019年1月

2019年1月12日 (土)

[才市] わしとあなたは海の水

わしとあなたは 海の水
煩悩の真水は入れど みな塩で
これが不思議 なむあみだぶつ
(才市さん, 『慚愧と歓喜』, p.113)


 ある方が,「水のいのち」という歌の一節を教えてくださいました.

降りしきれ雨よ
すべて許し合う者のために
また許し合えぬ者のために
(「水のいのち」)

 一読,いい詩だなぁと思うと同時に,いくつかのことが連想されました.その一つが,「誰がために鐘は鳴る」.「・・・のために」という言葉から,というより,次の一節への連想です.

いかなる者も、孤立した島ではない。
全ての人間は、大陸の一片であり、
大きなものの一部である
(ジョン・ダン)

 降りしきる雨がすべての者を包み込むように,海も孤立している島々を包み込む・・・

 しかし,よく考えると,これは海の意味がダンの喩とは逆になっています.ダンの文章では,海(海水)は,島々を隔てるものでしょう.それを私は,島々を包み込み,一つに繋ぐものと受け取っています.

 否定的な比喩としての海・海水と肯定的な比喩としての海.仏教でも,「海」を否定的・肯定的両方の喩に使います.たとえば,「苦海を渡る」などと言う場合は否定的な喩です.才市さんにも海の水を否定的な喩につかった,こんな口あいがります.

わしの心は海の水
変えられもせぬ
波風が吹く
慚愧歓喜が
(才市さん,鈴木-6:62)

 一方,肯定的な喩としては,たとえば,『正信偈』の一節.

凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
凡夫も聖者も、五逆・謗法の極悪人も、本願の智慧海に入れば、
海に流れ込んだ川の水が同じ塩味に変わるように、仏心に転換する。

ここでは,海はすべてを包み込むものです.そして,「塩」も肯定的な意味で用いられています.最初に掲げた才市さんの口あいは,『正信偈』のこの部分を念頭においているのではないかと思われます.

 さて,最初に引用した「水のいのち」は,5曲からなる組曲で,かなり有名な合唱曲だそうです.私が教えてもらったのは,第1曲「雨」の一節でした.

 この歌の第2曲では,雨が「みずたまり」になり,第3曲では「川」となって流れてゆきます.

空の高みにこがれるいのち
・・・
だが やはり 下へ下へと
ゆくほかはない 川の流れ

 そして,第4曲「海」に流れ込み,第5曲「海よ」で,

ありとある 芥
よごれ 疲れ果てた水
受け容れて
すべて 受け容れて
つねに 新しくよみがえる
海の 不可思議

これは,『正信偈』や才市さんの口あいの海と同じです.そして,水は空へと昇っていく.

おお 空へ
空の高みへの 始まりなのだ

のぼれ のぼりゆけ
そなた 水のこがれ
そなた 水のいのちよ

のぼれ のぼりゆけ
みえない つばさ
いちずな つばさ あるかぎり
のぼれ のぼりゆけ

 下へ下へと下流に向かって下るしかなかった水が,海に入って空の高みへと昇っていく.つまり,本願の智慧海に入ることによって,お浄土に往生し,いのちが成就する・・・というのはちょっと牽強付会に過ぎるでしょうか?

 付会ついでに,

雲となり
また ふたたび降るとしても

とは還相廻向のことだ・・・

【補足】
 才市さん, 『慚愧と歓喜』, p.113:才市顕彰会編『慚愧と歓喜』
 才市さん,鈴木-6:62: 鈴木大拙編著『妙好人浅原才市集』, ノート6の62番(p.83).
 才市さんの口あいは用字,改行などを読みやすく改めました.

 『水のいのち』:高野喜久雄 作詞, 髙田三郎 作曲, 1964.https://www.youtube.com/watch?v=GrjnCegkYCo など.

 「誰がために鐘はなる」:http://www.edit.ne.jp/~ham/yomoyama/donne.html .もともとは,病気の際にかかれた「瞑想」第17番の一部だそうです.「いかなる者も,孤立した島ではない.何人も大陸の一片であり,全体の一部である.・・・故に問うなかれ.誰がために弔いの鐘はなるのかと.そは汝のためなり」

 『正信偈』:現代語訳は,梯實圓『教行信証 教行の巻』(本願寺出版, 2011), p.369 からお借りしました.
(2018.01.13 字句を訂正)

2019年1月 3日 (木)

[才市] こころ ころころ ころころで

こころ ころころ ころころで
六字のなかで こころころころ
これでたのしみ なむあみだぶつ
(才市さん,『ご恩』, p.89)

 紅白歌合戦はご覧になりましたか.私はきちんと見ていなかったのですが,西野カナさんが『トリセツ』を歌っていたそうですね.

 西野カナ『あなたの好きなところ』については先日触れましたが,西野カナと最初に出会ったのはこの『トリセツ』でした.どこかに一部が引用されていて,可愛らしくて,なんとなく心楽しく幸せな気分になれる詩だなと思いました.歌詞だと知ったのは少し後ですが,歌も軽快で無邪気,楽しい感じです.『関白宣言』とかいう歌が,“上から目線”に終始した挙句,最後に「さぁ,泣け」って調子でメロメロ,ベトベトになるのと好対照です.

 しかし,ネット上には否定的な意見がたくさんあるようです.“私が浮気しても笑って許してねって言い出すんじゃないか,ムカつく”などと.そういう感想も分からないでもありません.この歌詞のようなことを実際に面と向かって言われたらムッとするような気もします.

 でも,この詩を読んだり歌を聞いたりする限りでは,むしろ無邪気で可愛らしい女性の姿が思い浮かび,なんとなく嬉しく楽しい気分になります.なぜでしょう? それが詩や音楽の力だから,醜いものの中にさえ美を見出すのが芸術なのだから・・・なんてもっともらしい一般論に逃げずに,その理由を考えていて,二つのことが思い出されました.

 一つは,ある小説の末尾近く,語り手(「薫クン」)の独白です.

ぼくは海のような男になろう,あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に.その中では,この由美のやつがもうなにも気をつかったり心配したり嵐を怖れたりなんかしないで,無邪気なお魚みたいに楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたりできるような,そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう.
(『赤頭巾ちゃん気をつけて』, p.149).

 『トリセツ』の歌を聞いていると,「あなたは,薫クンが理想とする,海のように心の広い人.だから,私をその海の中で泳がせて」と甘えられているような気分になる.つまり,自分が理想の男 --- 実際にはなれなかった理想の男 --- であるかのような幻想に浸れるので,気分がいい・・・.

 そしてもう一つが,冒頭に引用した才市さんの口あいです.連想がちょっと突飛すぎますか.でも,「こんな私だけど笑って頷いて」と言ったら「うん」と優しく微笑んで頷いてくれた,そんな相手に出会ったときの喜びと安心感は,この口あいの喜びと安心感と似ているような気がします.私の心がどんなにコロコロ転がっても,決して六字の中,つまり阿弥陀様の働きの中からこぼれ落ちることはない.決して見捨てられず,いつもしっかりと抱きとめてもらえるという安心感.だから,才市さんは心がコロコロころがっても何の不安もなく,『トリセツ』では,呆れて嫌われるという不安なしに好き勝手を言っている・・・.

 この口あいは,「こころ ころころ」なんて語呂合わせを言ったりして,少しはしゃいでいるような感じがします.否定的な内省の歌になりそうなところを,明るく屈託なく歌っているところも『トリセツ』の歌の感じに似ているように思いますが,いかがですか.

【補足】
 才市さん,『ご恩』, p.89:石見の才市顕彰会編『ご恩うれしや』.

 『赤頭巾ちゃん気をつけて』, p.149: 庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(中公文庫, 1973).

 『トリセツ』はたとえばこちらを(歌詞付).今読み直してみましたけど,これ,要するに「あなたのこと好きだから,私のことをずっと好きでいてね」って歌ですね.そんなこと言われたら嬉しいのは当たり前.上のクダクダは余計な議論のような気がしてきました・・・.

 『トリセツ』の男性版を作った人がいるそうです.一読,膝を打って頷き,「なんかもうイロイロすまん」に手を打って大笑い・・・.でも,最後の一節は受け取り方が別れそうです.

これからもどうぞよろしく、とはさすがに言えない。/こんな俺を笑って許すのは難しいと理解している。/だらか、ずっと大切にしなくてもいい。/実際、永久保証って訳にもいかないし。お互いに。

本当にそう思っているのか,あるいは,「なんかもうイロイロすまん」と言った手前,こう言うしかないのだけど,本当は・・・ということなのか.どちらでしょう?

 新年早々,おバカな話で失礼しました.

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